「多娯作倶楽部」
の思い出 2011年5月  岬 多娯作

(30代後半からの 自分史みたいなものでしょうか・・・)

仕事に燃えてた2〜30年前 当時の私は 朝から晩まで仕事中心の暮らしでした

仕事が好きで 部下たちとも真剣に付き合ってたから 充実感有って
寝不足の毎日でも辛くはなかった 飲み会も毎晩のように
それも 仕事絡みの仲間たちとが多く 一種の仕事人間でした

事業部の仲間と横浜中華街へ

都会の暮らしもそれなりに楽しかった ネオンの街の徘徊も生活の一部 
仕事の一部だったから それも楽しかった 若くもあったから・・・
新橋の本社以外の通勤は 車でしたから それも楽で良かった 



営業所巡り 幹部とも 新入社員とも真剣に付き合ってました

 
南米 中米 生産国巡りの旅・・・未知の世界との遭遇
 多くの知人や 知識を得たことは大きな財産 人生のターニングポイントでした

最後まで好きになれなかったのは 東京本社への電車通勤
ラッシュアワーや満員電車は一番嫌いで 最後まで馴染めなかったですね

その次に嫌いだったのは 都内有名ホテルでの立食パーティ 
お世辞が言えないし 気取るのも苦手 更に 短気でセッカチだったから

当時繁栄を誇った誰もが知ってる ダイエーや ジャスコ セブンイレブンetc
そんな流通業界のトップ 明治 森永 不二家 コカコーラ 日本を牽引していた
大手食品メーカー 包装資材メーカー 大手商社 流通問屋 ホテル 外食産業
そんな企業のオーナー方 政財界の大物諸氏 銀行金融団体諸氏
福田さんや中曽根さん 若い頃の鳩山さんたちも良く来てましたね 
加えて新聞や報道メディアの皆さん方も 総勢百人から数百人規模で集まって・・・

当時自分は経営者じゃないし 若輩者でしたから 精一杯背伸びして・・・

参加される皆さん 表面平静を装うものの 内心 虚栄と駆け引き 深謀遠慮 
呉越同舟 本音と建前  そんなものが渦巻く立食パーティが苦手でした

それでも会社の看板背負って 一部上場食品会社としてのプライド持って 
そして 新たな人脈作るべく 更には 仕事のネタが拾えるよう 
頻繁に参加した時期もありました 特に年末年始は頻繁に
 常に緊張感持って そんなことも仕事生活の一部でした・・・ 

その当時知り合ったのが土井さんで 当時彼は日本コカコーラの役員
ダイエーの中内会長はじめ 多くの業界トップと気楽に話をしてました
私なんぞは 名刺交換して ふたことみこと話をするのが精一杯でしたから
英語も堪能で カッコがいい土井さんのことを 羨望の眼差しで見ていたものでした

 その後 伊豆伊東温泉での 大手小売店の業者会で たまたま彼と同宿
大宴会の翌日にも 早朝部屋を抜け出し ジョギングをするほどのスポーツマンで 
以来 プライベートでゴルフをしたり 友人としてのお付き合いさせてもらって
その後彼は転職 今でも現役活躍中 向上心の強い人です
岬の我が家に 遊びに来たこともありました


仕事仲間と 気楽なゴルフ会

そんな 楽しい思い出もありました・・・
しかしながら 毎日のように都会のジャングル ネオン街の徘徊 満員電車での通勤
時には自分を殺して 家族のため みんなのため 会社のため 
そんな暮らしに 虚しさ 空虚感も感じ始めていました

多忙な日々 寝床に入ってひとり巡らせるのは 水辺への想い 甘ったれた夢
「海へ行きたいな 釣りに行きたいな きれいな水辺でのんびり遊びたいな」



多忙な生活が続けば 続くほど水辺への想いが 強くなって行きました
ある日のこと いつものように気の合う仲間 
楽しいことが極めて好きな 仕事仲間とイッパイやりながら
 「いつか 旅の終わりに四万十川に行こう そこを最終地点にしよう 
秘境に行くほどの時間も 体力も度胸もないけど あまり人が来ない 
きれいな水辺で酒を飲もう のんびりしよう 都会を抜け出し楽しく遊ぼう 
あちこち探検しよう」

そんなことで結成したのが 「中年探検隊多娯作チーム」 
似たような想いを抱く Oさん 根本 それに私の 3人でのスタートでした

 
今は故人となってしまったが 親友のOさん(メガネの人)は多娯作創設仲間

当時読み耽っていた椎名誠の 「怪しい探検隊」にヒントをもらって 
私が命名 20数年前のことでした 
多(たくさん) 娯(楽しみ) 作(作ろうよ) ということで 多娯作

他の仲間に声を掛けると 異動転勤であちこち分散していた元の部下たち中心に
すぐに5〜60人が加わって 早速活動のスタート


山形県の離島 「飛島」で 民宿に泊って

アウトドアでは 自分らしく 自由に生きてました

最初の探検地は山形県の飛島 続いて 噴火前の三宅島 熱海の初島 
東京湾は夢の島キャンプ地 台風上陸で大荒れのテントの中で etc 

そうだ 大原港長栄丸を貸し切って イカ釣りに興じたことも 
大原シーサイドペンションに泊って 大騒ぎした思い出も 
2〜3ケ月に一度の割合で あっちこっちへ出掛けてました・・・


大原の ペンション「マリンテラス」前の海辺で 夜の宴会

「多娯作チーム」の飲み会も たびたびやりました 皆が集まりやすい東京で・・・

グランドを四面借り切って ソフトボール大会もよくやりましたね
遠くは静岡や茨城の営業所からも 早朝4時起きで参集し 多い時は8チーム 
160人も集まったことがありまして 弁当の準備だけでもタイヘンでした・・・


バッター多娯作 & チーム多娯作

どこの営業所 どこの事業部を担当しても それぞれみな楽しかったね

モチロン会社としての行事じゃなく 多娯作チームのプライベートな企画であり 
コーディネートでした・・・休日利用し 楽しかったですね 私はいつも 
現場の総監督元締め兼ピッチャーで 朝の10時から夕刻まで クタクタになって
楽しい時代でした まだまだ気持ちは若かったから・・・

そんな暮らしが4〜5年続いたのですが その後私は 岬町に別宅を作って
毎週末 外房の岬町へと通う生活となりました
 
更には神戸で大震災が発生 日本中が大混乱 現在の東北大震災と酷似
「中年探検隊多娯作チーム」の活動も 難しくなって・・・ 

徐々に私は 「週末海辺暮らし」中心の生活に シフトしていったのでした

週末が待ち遠しい暮らし そんな生活を5年ほど続け 子供二人も学校を終え
社会人となって数年経っていたこともあって 会社を退職 まだ若かったけど 
憧れの本格的田舎暮らしに のめりこんでいったのでした

岬町に住み着くと 小さなプレジャーボート「関丸」を中心とした 
5〜6人の釣り仲間グループ「関丸船長会」に参加 海釣りと酒飲みの会でした

岬の町でたまたま入った床屋 「ヘアサロンツルオカ」で 散髪してもらいながら 
「何処に住んでるんけ? 何が好きなのさ?」 そんな会話があって 
「週末田舎暮らしで 海と釣りが好きで 岬町へ家を作ったの・・・」
そんな話をしたら 「それじゃ 一緒に釣りに行くべー 船を出すから・・・」

それが切っ掛けで 地元の釣り仲間4〜5人の輪の中に入ったのでした
 ただビジネス社会と違って 挨拶して名刺交換したり 気を利かせて仲間たちに
 紹介するなんてことは全くなく 自分から相手の中に入っていかなければ前へ
 進まず 初めの頃は 地元民仲間内での房総訛りの会話が聞き取れず 
意味も判らず 着いてもいけず それなりに苦労も有りましたが・・・  

やがて地元民とも溶け込んで 誘ってくれた鶴岡さんには 今も感謝してますね
 

毎週2〜3回は船に揺られ 太東沖の船釣りに 憧れの暮らしにまっしぐら 
 
梅の実を取って梅酒を作ったり ビワもぎや 銀杏拾いに行ったり 
勝浦へワカメ拾いに行ったり 毎年タケノコ掘りにも連れてってもらって 
お陰で田舎暮らしにもどっぷり漬かって 何かが終わった後は 必ず酒の会に移行
 それはそれで とても楽しい時代でした・・・



カメラを持ち歩くようになったのはこの頃 船の上で 
仲間の釣り姿を撮ってプレゼントすると みんな大喜び 大はしゃぎ・・・



魚が入れ食い状態の時は 誰しも 自分の釣りのことで夢中になってるので 
他人のことなんかお構いなし だから 誰も自分自身の釣り姿や 
大物を釣り上げた感動シーンなど 見たことがなかったのです

「写真と云うのは こんなにも人を喜ばせ 楽しくさせるものなんだナ」
学習しました
以来 釣りだけに限らず あちこち持ち歩くようになったのですが
精密機械は潮風に弱く すぐに壊れてしまうのが欠点でした・・・



しかしながら 数年後 霧が立ち込める海へ船を出した夏のある日 
沖は大荒れ 慌てて引き返したものの ボートが転覆 生死の境目をさまようことに・・・

奇跡的に4名無事に生還したが プレジャーボートは使用不能となって

そのことが切っ掛けとなって 海釣りへの情熱も徐々に冷め 考えを少し改め 
地元民と都会からの移住者を融合させるべく 「岬大原多娯作倶楽部」を 
新たに結成 
海釣りだけに偏ることなく 近場で交流会を始めよう 仲間の輪を広げよう・・・
かつての企業戦士も呉越も 今は田舎の仲間たち 肩書き捨てて楽しく生きよう・・・
メンバーは15〜6人 夫婦合わせても2〜30人の小人数の会でしたが



 ゴルフの会 月見の会 花見の会 どこかのお店を応援する会 仲間の歓迎会 
還暦の会 喜寿の会 いも煮会 釣りの会 潮干狩りの会 プライベートなゴミ拾いの会
いすみ鉄道存続応援の会 ポプリを応援する会 忘年会に新年会 囲碁の会





そんなこんなで 何かと飲み会 交流会を計画 雨の日は温泉宴会 
時に一泊旅行 年に1〜2回は 遠出や海外旅行に・・・



自分自身も仕事で海外へ行った時 現地の人に親切にされた経験あるから 
我が国を訪問した外国人にも 親切に接しよう そんなことも考えてました



ハワイアンの会に参加して ウクレレを習っていたことも フラ仲間もできたし
予想通り音楽的素養が全くないこと再確認し 数年で挫折しましたが・・・
指導して下さった皆さんや 先生方には いい思い出として今でも感謝してます

 

 

  岬町に住み着いた初めの頃 新たな移住者をよそ者扱いして 
何かにつけ 敵対心をむき出しにした地元民も 少なからずいたので 
苦い体験を持つ移住者は 自分の殻の中に閉じこもって 地元との
交流を持たない人もいました 中には 都会へ引き返した夫婦も・・・

そんな彼らを 「何とか融合させよう」 そんな風に考えて いろいろ画策
名前も 「岬多娯作」と名乗って・・・

ある時 ハワイアンウクレレを習っていた大原の「レストラン波ら樹」
お世話になってるお返しとして コーヒー教室を開きました
その時に出会ったのが 伊籐さんと桜井さん
この二人も ほぼ同時期に田舎暮らしを始めた仲間で 共通点も多く
当時は何かと 情報交換やら 行動を共にすることが多かったですね

「レストラン波ら樹」に飾られていた ウミガメの赤ちゃんの写真を見て感動し
伊藤さんと二人して「いすみ郡市自然を守る会」 にも入会 
初めの頃はウミガメの保護と 山田のホタル保護観察会 川や磯辺の自然観察
それにバードウォッチングや 植物群落地の観察会 展示会への出展など・・・
都会から来た者にとっては みな新鮮 これらもみな楽しかったですね

そして手塚さん たべさん 桜井さんの3人が大原新田で 2反5畝の田んぼを借り
有機農業にも挑戦してました 桜井さんに誘われ 多娯作も米作りに参加
手塚さんには 憧れの田植え機や コンバインの操縦法など教わり
田んぼのザリガニ獲って カラ揚げにして食べることなども 教わりましたね

 

 

 稲刈りなども この時生まれて初めて体験 今から10年近く前だったでしょうか・・・
そして 農薬を使わないことの苦労 雑草取りの苦労なども実感しました

「いすみ郡市自然を守る会」の 仲間たちから
「アカウミガメ産卵上陸の痕跡あり 至急○○へ集合して下さい」

そんな情報が入ると 朝でも夜でも 砂浜に跳んで行って 卵の数を数えたり
盗掘されないように サンドバギーで踏み荒らされないように保護活動
ウミガメの赤ちゃんを初めて見たときの感動 今でも忘れないですね
3〜4年は 夢中になって活動してました・・・

スローライフがしたくて 海辺の町にやって来たのに 
海釣りから戻ると 砂浜にウミガメを見に行ったり ウクレレ習ったり
田んぼの手伝いしたり 夜は毎晩のように飲み会に付き合ったりで
のんびりしてる暇がなくなって むしろ多忙な生活が始まってましたね・・・



メンバーの中枢は 学校の生物学の先生方だったので 
浅学非才の多娯作 何かと教えて頂き 自然や生物への興味も増し 
田舎暮らしのイロハなど 学ぶこともできました とても感謝してます

 そして秋になると 一宮の「はだか祭り」から始まって 大原町の「はだか祭り」
最後は地元岬町での「十三社の祭り」で締めくくり すっかり地元民の顔して
付いて回り 振る舞い酒ゴッソーになって  おおむねは 酔い潰れて・・・

 
大原のはだか祭り
 
岬の祭り いつも酔い潰れて


それから 「ビーチクリーンアップ岬」に加わり 海岸清掃
普段はひとりでゴミ拾いしてたのですが 今は組織にも加わり 両面でゴミ拾い・・・ 

「ビーチクリーンアップ岬」には 年々参加者が増加 最近は800〜900人の
参加者が集まってくれる 多娯作もイベントスタッフの一員に加わって
毎年 夏と秋の2回 定期的に実施 海岸美化の啓蒙活動 これも楽しくて・・・


恒例の海岸清掃 たくさんの人が手伝ってくれます


そして 長年の職業病?も 消えることなく ある種の看板を見つけると
すぐに飛びこんで 勝手なオセッカイ 「こうすれば もっと良くなるよ・・・」
飲食店に対してアドバイスやら 販促策の提案指導を始めてしまう癖が抜けず
いずれにしてもノーギャラで 勝手な応援団となって 応援支援・・・

そんなことで知り合ったのが 岬町の「だるま庵」「いすみスカイホテル」 
一宮の「画廊喫茶けい」 「ホテルシーサイドオーツカ」 「ホッジポッジ」
最近では「Route59} 大原の「レストラン亜スリ」 「カフェ909」 
茂原の「ペッシュアズーロ」 今は無き店も数店 etc

それから 画家の友人も数人いる多娯作 絵を見ることも好きでした
ある日 岬町の「わだつみ美術館」に ひとりで入ってみました 



そこには
20〜30年前の大原港大東港を中心とした 外房の海岸風景がたくさん飾られ
海と 海のある風景が好きな多娯作 懐かしく 見入ってしまいました 
すると 鈴木吉郎画家の奥さん 鈴木館長がやって来て
「この絵は 主人が書いたものですが 2年前(?)に 亡くなりました」
「そうですか 存命中にお会いしたかったですね・・・」



そんな会話が有って 親しくなって イロイロ伺ってみると  
ご主人の遺志を継いで なんとか続けてるのですが 来館者少なく 
 太田町長にも相談したことがあったのですが 経費面で維持運営に
苦慮されているとのこと 
「そうですか それじゃなんとか協力しましょう・・・」



そこで多娯作考えて いつもいつものオセッカイ
仲間の大藪さんを案内して 「ここで 個展を開いたらどうですか?」
提案したら 事情を察し その気になってくれて
「大藪健の小さな世界」 を開催 ミニコミ紙も取材に来てくれました



大藪さんは 水中写真や 白いコーモリにホタルの写真など たくさん展示
更にギターの弾き語りなど 彼は高校の先生だったので 
教え子たちが たくさん来てくれ お陰でこの美術館も 久し振りに活気が戻って

 それから カリスマサーファー テッド・阿出川さんが ハワイから戻り 
サーフィンを日本に普及させようとした草創期の苦労話 昔話などを語って 
当時脳梗塞で倒れ リハビリ中だったのですが
「いずれまた ボードの上に立ってみたい」 そんな話もされ 共感呼んで 
更に多娯作は
「コーヒーのよもやま話 美味しいコーヒーの淹れ方」などの講習会で協力
ノラ犬サーファーのり君も来てくれ 彼とはこれが縁で知り合って・・・



更に 地元の人たちも 「わだつみ美術館なんて知らないし 行ったこともない」
そんなケースが多かったので 多娯作は多くの知人を連れ訪館したもので


そんなことが切っ掛けとなり 大藪さんの奔走も多々あって 以後 
水産大の水口教授ご夫妻が個展を開いたり ポツポツと 個展利用や
イベント利用などが 行われるようになったのです 
昨年も大藪さんたちの努力で 写真家の國房さんたちも使って下さって 

それでもマダマダ不十分 
「これからも 出来る限り支援していこう」 
そんな風に思っているのです


流暢に日本語を話し 日本文化に造詣の深い エバレット・ブラウンと知り合って
ある日 彼の庭 ブラウンズ・フィールドに遊びに行った

 

そして中島デコさんと出会って 話してみると 彼らも私とほぼ同時期に東京から
岬町の桑田に移住したばかり 言ってみればお互いに 田舎暮らしの新入生 
親近感も沸いてくる 彼らはこれから イロイロなことを考えているらしい
 
そして 庭には外国人がウロウロしている 「ウーフの会」なるものを知ったのも 
このころで ミント君とアンちゃんといって とってもかわいい子たちも
庭で無邪気に遊んでたね 時々下山田さんの波流(はる)ちゃんもやって来て

デコさんが 「私ね 本を出したの」 そんな訳で数冊買って
知人にも分けてあげた そして初めて 「マクロビオティック」なるものを知ることに
そして多娯作はこの頃から 徐々にメタボリックに・・・



ミント君が 「ボク ツリしたい」 というので 夷隅川のハゼ釣りに連れて行った

小学校に上がってからは 飯岡沖のキス釣りにも連れってたね みんなが船酔い
したのに ミント君だけはガンバッテ 船首でキスを釣ってたね・・・

 

 

「あのさーあ ブラウンズ・フィールドで 今度ガーデンパーティをしたいの
多娯作さん コーヒーの販売をして 盛り上げてくれない?・・・」

「アイヨ ガッテン」 デコさんに頼まれ 以後何回かイベントのお手伝いを





 

トムソーヤを思い出すような ツリーハウスも有って 

 

ブラウンズ・フィールドに集まる人たちとも たくさん知り合いが出来ました
彼らはマクロビオティックな生活感 有機栽培野菜の食生活 健康生活
それに 一種独特の人生観 哲学をを持っている人が多く 
それもまた 多娯作にとっては全く知らない世界だったので
興味や好奇心もあって 楽しく遊ばせてもらったこと 懐かく思い出します・・・



「船の上から スナメリ(小型クジラ)などを観察する 夢クジラの会を立ち上げたい」
中村さんや「いすみ郡市自然を守る会」が主導して そんな案が浮上 
ただ獲るだけの漁業でなく 資源保護や観光誘致での町興しには 
多娯作も大いに賛成だったので 発足準備会議などにも 何度か参加していた 
何よりも イセエビ漁の将来性を危惧していたので・・・

 

多娯作は 太東の灯台沖で釣りをしてるので 時々スナメリには出会っている
ここらの海の様子もかなり知っていた 南方系の熱帯魚にも 時々出会ったし
鳥や魚の種類も豊富 家族向や 素人にも出来るアジ釣りなども可能だ

ただスナメリと云うのは 2m前後の小さいクジラで 迫力ある大ジャンプなどと
云うのにはまず出会えない だから 
「ホエール・ウォッチングとして宣伝する
のではでなく 総合的な 自然観察クルーズにするべきじゃないか・・・」


多娯作はそんな意見提案をしてましたね 大海にあればスナメリなんて
とても小さな存在 しかしながら 豊かな海 豊饒の海の証拠であることは 
確かだと思うので



 そして 有料クルーズが始まって 開設メンバーが交代で船に乗り込み 
お客さんの世話やガイド役となったもので
 多娯作は主に 観察風景をカメラに記録する係でした しかしその後 プロ?の
カメラマンが加わって 時にはTVクルーも入って 多娯作の出番も無くなって

 


その間にも 仕事時代の昔仲間 後輩たちが頻繁に岬へと遊びにやって来て・・・



営業所単位でやって来たり

 



寄せ集めで お呼びが掛かったり

 

昔仲間が集まってくれる ということは もう無条件で嬉しいですね



テニス部仲間が 合宿に来たり

 

退職後 既に5年は過ぎていたのに 子分が集まり還暦祝いをしてくれた
それはもう 嬉しいことでした 10年ぶりに出会ったヤツもいたし・・・



つい最近では こんな子分たちも 我が家に泊って

 


続きは後日・・・


多娯作倶楽部
2011年 5月
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